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第9話 青いドレス

Author: 春野ケイ
last update publish date: 2026-10-26 06:18:21

王宮から秋の夜会の招待状が届いたのは、シア様に焼き菓子を教えた三日後のことだった。

収穫祭を祝う、年に一度の大きな夜会だ。王家の方々はもちろん、国中の貴族が集まる。婚約者のいる令嬢は、その相手にエスコートされて出席するのが決まりだった。

招待状と一緒に、王家の紋章入りの大きな箱がひとつ届いた。

居間で蓋を開けると、中には目の覚めるような青いドレスが畳まれていた。胸元から裾まで、銀糸の刺繍がびっしりと施されている。

「まあ、きれい」

添えられたカードには、殿下の角ばった文字でこう書いてあった。

『夜会当日は、これを着て、俺の傍を離れるな』

「殿下が贈り物をくださるなんて、初めてだわ」

私がカードを眺めていると、後ろからお父様が覗き込んで、低く唸った。

「殿下の瞳の色か」

「そうなのですか?」

「誰の婚約者か、一目でわかるようにということだろう」

お父様は鼻を鳴らして、ドレスの裾を指先でつまんだ。

「……生地はいいが、お前の肌には少し強すぎる色だな」

「お父様、せっかくの贈り物ですのに」

「わかっている。わかっているとも」

お父様はそれ以上何も言わず、ドレスの箱をミナに預けて、書斎に戻っていかれた。

ミナは箱を抱えたまま、ドレスをじっと見下ろしていた。

「お嬢様。この刺繍、たいそう重そうでございますね」

「そうね。踊るときに、裾をうまくさばけるかしら」

「……殿下は、お嬢様と踊るおつもりなのでしょうか」

「どうかしら。シア様のお加減次第ね」

ミナは何か言いたげに口を動かしたけれど、結局、黙って箱の蓋を閉じた。

翌日、魔術院の廊下はいつになく慌ただしかった。

若い魔術師たちが、光る石の詰まった木箱を抱えて行き来している。夜会の会場を照らす魔法灯と、王宮全体を守る結界の準備なのだと、顔なじみになった魔術師のひとりが教えてくれた。

「ノーラン様が、結界の総責任者なんです」

フェリクスという名のその人は、くせのある赤毛をかき上げて、少し声を落とした。

「ヴァレンティ様。差し出がましいようですが、ひとつだけ」

「はい」

「ノーラン様、ここ数日、ほとんど寝ていないんです。魔力の調子もよくなくて、院長からは夜会の担当を外れて休むように言われたんですが」

「まあ。それなら、休まなければ」

「本人が、どうしても自分でやると。他の者には任せられないと言って、聞かないんです」

フェリクスさんは、私の顔をちらりと見た。

「……誰が出席する夜会か、わかっているからでしょうね」

「王家の方々がいらっしゃいますものね。ルカは、昔から責任感が強いから」

フェリクスさんは、なぜか天井を仰いで、深い溜め息をついた。

研究室の扉を開けると、ルカは机に広げた王宮の見取り図に、細いペンで何かを書き込んでいた。

いつもの椅子に座って、籠から薬草茶の瓶を取り出す。ルカは顔を上げずに、「ありがとう」と言った。

「ルカ、夜会の結界のお仕事、なさるのね」

「フェリクスに聞いた?」

「ええ。少し休んだほうがいいって」

「平気だよ。夜会が終わったら、ちゃんと休む」

ペンを走らせる手が、一瞬止まった。

「……君も、出るんだろう。殿下と」

「ええ。殿下が、ドレスを贈ってくださったの」

「そう」

ルカは書き込みを続けながら、何気ない調子で尋ねた。

「何色?」

「青よ。殿下の瞳の色なんですって。銀の刺繍がたくさん入っていて、とても豪華なの」

「……そう」

しばらく、ペン先が紙を擦る音だけが続いた。

それから、ルカは誰に言うともなく、ぽつりと呟いた。

「君には、若草色のほうが似合うのに」

「え?」

「何でもない」

カチャン、と小さな音がした。

ルカの手からペンが落ちて、机の上を転がっていた。拾い上げようとした指先が、細かく震えている。止めようとするように、ルカは左手で右の手首を強く握った。

「ルカ」

思わず立ち上がって、その手に自分の手を重ねた。

震えが、手のひらから伝わってくる。冷たい。子どもの頃、熱で寝込んでいたルカの手は、いつも燃えるように熱かったのに。

「こんなに冷たい。やっぱり、夜会のお仕事は誰かに代わってもらったほうが」

「エレナ」

静かな声だった。

ルカは私の手を、そっと自分の手から外した。乱暴ではなかった。壊れものを扱うような、ひどく丁寧な仕草だった。

「婚約者のいる人が、こういうことをしちゃいけない」

私は、外された自分の手を見下ろした。

「……ごめんなさい。昔の癖で」

「わかってる。君は悪くない」

ルカは困ったように笑った。笑っているのに、どこか苦しそうな顔だった。

「でも、僕はもう、熱を出して寝込んでいた子どもじゃないんだ」

返す言葉が見つからなくて、私は黙って椅子に座り直した。

胸の奥が、またちくりと痛んだ。シア様に「大切な幼なじみ」と答えたときより、ずっと深いところで。

その夜、自分の部屋で、私は青いドレスを広げてみた。

燭台の明かりの下で、銀糸の刺繍がきらきらと光っている。豪華で、重たくて、殿下の瞳と同じ色。

鏡の前で胸に当ててみると、確かに少し、顔色が沈んで見えた。

――君には、若草色のほうが似合うのに。

どうして、ルカはそんなことを知っているのだろう。

そういえば子どもの頃、母が仕立ててくれた若草色のワンピースを着て、隣のお屋敷に行ったことがあった。寝台の上のルカが、熱でぼんやりした目で、「春みたいだね」と言ったのだ。

そんな昔のことを、ルカは覚えていたのだろうか。

私はドレスを畳んで、箱に戻した。

夜会は、明後日の夜だ。

窓の外で、魔術院のある方角の空が、一瞬だけ青白く瞬いたような気がした。

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